天皇陛下はご譲位を望んでおられる。
にも拘らず、そのことが「玉音放送」によって疑問の余地なく
明らかになっても、公然と不敬極まる「摂政」設置を唱え続けた者
らがいた。
その者らの汚名は、末代まで決して雪(そそ)がれることはない。
私は当初から、摂政も国事行為の臨時代行も一切、
あり得ないと断言してきた。
有識者会議の「論点整理」も、この点は明確に排除したと見てよい。
摂政設置の「課題」の部分をいくつか紹介する。
「長寿社会を迎えた我が国において、
例えば天皇が80歳のときに摂政を設置した場合、
天皇が100歳となり、摂政である皇太子が70代になる
というケースも想定される。
このような長期間にわたり摂政を設置することや、
摂政自身がかなりの高齢となられることは、
象徴天皇の制度のあり方としてふさわしいのか」
「制度上は象徴であるが象徴としての行為を行わない天皇と、
制度上は象徴ではないが実質的には象徴が行う国事行為や
公的行為を行う摂政とが並び立つことになるので、
国民は、天皇と摂政のどちらが象徴で、権威があるのか
分かりにくくなり、象徴や権威の二重性の問題が生じるのではないか」
「憲法は国事行為の委任と摂政を規定し、
現行制度ではこれを意思能力があるかどうかで区分している。
高齢であっても意思能力がある天皇についてまで摂政を設置する
ことができるようにすることは、憲法が定める摂政制度の範囲を
超えるのではないか」
「天皇の公的行為を摂政が事実上行うことは考えられるが、
あくまで摂政としての行為であり、象徴としての行為とは
ならないのではないか」等々。
摂政設置という愚劣な暴論論が一掃されたのは、一先ずめでたい。
残るは、政府が固執する「一代限りの特例法」という、
もう1つの暴論。